おててのしわとしわをあわせてもそう簡単には「しあわせ」にはならないってこと
と,安い毛布を干しながら思いました。
さいきん「幸せ」という意味の深さとかいい加減さに腹がたってるですよ。
…あ,激おこぷんぷん丸なんですよぉ(流れに乗る)
厳密にいうと,「みんなはこんなことに幸せ感じてるよ!」っていう押し付けというか,そういうのって「不幸せ」のはじまりのような気持ち。
20代こえて「幸せ」という種類が幅広くなるにつれてますます,この言葉が嫌になるときがある。
ともだちや周りの人とはなしていると,「このひとはこのことに幸せを感じるのか,ふむふむ」(馬鹿にしてるように聞こえますか…)ということがいっぱいあって,じゃあ自分が幸せだと思うときって何かなって考える。
いろいろ羅列したい気持ちもあるけど,それを考えてるときに「ニヤニヤしちゃう」ようなことが「幸せ」なんじゃないかと自分は考えた。
「信号がずっと青でした」とか「綺麗な花が咲いてました」という小さい幸せを「幸せ」だって思える人は,きっとこういう偶然や出会いにも「ニヤニヤ」できる人なんだと思う。
わたしは「ついてるな」ぐらいに思うけど「ニヤニヤ」まではいかない。他にニヤニヤすることが訪れたら,信号がずっと青だったことに気づかないかもしれない。
とすると,人の幸せの基準てもうぜんぜんバラバラだし,「幸せになるために石を身につけよう!」とかいっても石アレルギーだったらすごい不幸せが訪れるわけだし,「この映画をみて幸せなきもちになろう!」とかいってもすでにそれをこえた「幸せなきもち」な人には響かない。基準となる「幸せ」をはるかに凌駕していたら,ちょっとやそっとじゃ「幸せ」と「ニヤニヤ」は湧いてこないんじゃないかと思う。
…ってことをじみじみ考えてたら「物事むずかしく考えるね」って言われました。
うむむ!
でも幸せになれない人っていっぱいいるよね。「自分の幸せをだれかに幸せだって認められないと幸せになれない」のはそれって「不幸せ」なんじゃなかろうか。なかなか「ニヤニヤ」は訪れないと思う。
できる限り,たくさん「ニヤニヤ」できる人生を歩みたいなあ,と考えてみたら,ちょっとニヤニヤできました。
春だから「ニヤニヤ」している人を見かけても,「幸せ噛み締めてるんだな」って思って,多めに見ようとおもいます。